サー・ジョン・ボウリング(バウリング、英語: Sir John Bowring [ˈbaʊərɪŋ]、1792年10月17日 - 1872年11月23日)は、イギリスの政治経済学者、旅行家、翻訳家、政治家。第4代香港総督。漢字表記は宝寧、宝霊(マンダリン風)もしくは包令(広東語風)。
経歴
生い立ち
1792年10月17日、エクセター生まれ。父は中国を市場とした羊毛商のチャールズ・ボウリング(1769年 - 1856年)。母のサラ・ジェーン・アン(1828年没)は、コーンウォール州セント・アイブスの牧師トーマス・レーンの娘。最終学歴はモートンハムステッドのユニテリアン学校。13歳の時に父親の会社で働き始めた。一時はユニテリアンの牧師になることを希望していた。イギリスでは、ボウリングが21歳になるまでユニテリアン信仰の布教は違法とされていた。
ボウリングは、半島戦争(スペイン独立戦争)で、イギリス軍の契約業者となる。まず、1811年から4年の間はミルフォード商会(Milford & Co.)の事務員として、さまざまな言語を習得し始めた。
その後は幅広く旅をし、1822年にはスパイの疑いでブローニュ=シュル=メールで6週間投獄された。
政治経済学者として
政治家・実業家として
広東時代
香港総督
第二次アヘン戦争と晩年
私生活
最初の妻のマリア(1793年または1794年 - 1858年)とは、ロンドンに移住した後の1818年に結婚し、5人の息子と4人の娘(マリア、ジョン、フレデリック、ルウィン、エドガー、チャールズ、イーディス、エミリー、ガートルード)をもうけたが、1858年9月にアロー戦争下の香港でヒ素中毒により死亡した。
1860年、後妻のデボラ・キャッスル(1816年 - 1902年)と結婚したが、子供はもうけなかった。1902年7月、エクセターで死去。彼女は著名なユニテリアンのクリスチャンであり、女性参政権運動の支持者であった。
1872年11月23日、ジョン・ボウリングは80歳で死去した。
栄誉
- バス勲章ナイト・コマンダー(KCB)
- ハワイ王国カメハメハ1世勲章騎士大十字架
- 王立学会及び王立地理学会フェロー
- プラヤ・サマヌクルキ・サヤミットマハヨ(タイ語: ยาสยามานุกูลกิจ สยามิตรมหายศ)
- アメリカ稀覯書学会員
脚注
外部リンク



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